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ブッタとタケノコ (文:平井麻起)

(2025年5月3日配信ハッピーメール)




筍の季節だ。

家の裏の野っ原にカマドと薪を運んで、大鍋でグツグツ、せっせと筍を茹でる日々が続く。筍が出てくれば、暮らしの中に筍仕事が組み込まれていく。あわただしくとも、ボウボウと燃え上がる火をみていたら、キモチが静まっていくから面白い。

 

ウグイスがさえずり、カエルの声が響き、鷺がバタッと飛び立ち、薪がはぜる音があり、子どもらの遊ぶ声がきこえる。わたしひとり、煙にいぶされながら、春の中に立っている。ただ、ある、世界に住んでいるんだなあと、しみじみする。

 

岩波文庫の『ブッタのことば』を、毎朝、音読仲間とオンラインを利用して読んでいる。その本の中に、出家者が食物を得る方法について、たびたびブッタの語ることが出てくるのだが、托鉢、施されたもののみであることに徹底していて、興味深く読み進めていた。これは、一体どういうことなんだろうなあという思いを持って読んでいたところに、筍仕事が始まって、あれ?と思った瞬間があった。

 

筍仕事をしていると、不足していると思っていたのは、妄想だったのだという感覚になる。いつも、与えられている世界にいるのに、忘れてしまう自分がいるなと思う。そして思い出しても、目の前の現実を生きてると、何度も忘れてしまう。托鉢によりいきることは、ある、とか、ない、とか、いう世界を超えていくひとつのやり方なのかもしれないなと思った。

 

ブッタの説くやり方で道を行くのは大変そうだなと、令和にいきるわたしは思ってしまう。わたしはゆるゆると、筍を掘り茹でる道で行きたいが、そのことについてブッタに問うてみたら、何と応えてくれるだろう。

 

瀬戸内海の島より

平井麻起


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