母の思い出。(文: yanzi(ヤンヅ))
- 京都生涯学習カレッジ
- 6月25日
- 読了時間: 3分
(2025年6月21日配信ハッピーメール)

昭和4年生まれの母は昨年95才で他界いたしました。
認知症の進む中で母が繰り返し話してくれたことがあります。
戦時中母は女学校に通っていたそうですが、勉強より学徒動員と言って工場等での勤労奉仕に多くの時間を費やしたようです。
毎日の学徒動員の中である時、貴重なお弁当が食べられていたそうです。
暫くして朝鮮から連れてこられた今の小学生か中学生ぐらいの子供が食べていたことが分かったそうです。
母の友人たちはそのことを話さず友人同士でお弁当を分け合って食べたと言っていました。
女学校へ行くのに電車が来ても人が多く乗れないこともあって数十キロの道のりを歩いて通ったと話していました。
体育の授業として「十里行軍」と言うのがあったそうです。一里は約4㎞です。
物もない時代、下駄や裸足で歩く人もいたそうです。
勤労奉仕は工場だけではなくグループ分けがなされ様々なところへ出かけていたそうです。
その中でも農家に行くと帰りにはジャガイモや季節の野菜を貰えることがあったそうです。
そんな時は「わたしはジャガイモをもらったよ」等と自慢話になったそうです。
大牟田市には大きな工場があり爆撃も頻繁であったようです。
終戦後は校舎もなく青空学校とか朝と昼に分かれた授業もなされていたようです。
このことは何度も母から聞くうちに私の中に記憶されていたことです。
私は母の24才の年に生まれました。
私が20代のころ母は女優の香川京子さんに似ていると言われていました。
料理も裁縫の腕前も家族以外の方から褒めていただいていました。。
散らかったり汚れたりするのが嫌いな人でした
洗濯もまめで引き出しの中のものも曲がったものがなく常に整理整頓がなされていました。
朝は一番にトイレの掃除をしていました。
戦中戦後を生き抜き父に請われて結婚したものの苦労続きであった母は本当に几帳面で困った人には出来るだけのことをする人でした。
ただ少しやりすぎかもしれないと相手が思うこともあったようです。
父母は一念発起し借金をして立ち上げた会社は軌道に乗り人も雇えるようになり会社として安定をしていきます。そんな中でも様々な事が起こっていたようです。
母は80代後半になり認知症の症状が顕著に表れ始めました。
90才になり杖をついて草を抜いていた時に倒れ大腿骨を骨折し緊急入院となりました。
術後リハビリを頑張っていましたが、認知症の症状は進み退院後は介護付きの老人ホームへの入所をいたしました。
我が家では今の季節、庭に浜木綿の花が咲きます。白い美しいユリ科の花です。
毎年母へ届けようと思いながらも一度も届けることは出来ませんでした。
今やっとお仏壇の中に飾っています。遅くなってごめんね「お母ちゃん」。
思い出すことが供養になると先生から伺いました。そして、その匂いからも思い出が広がります。
やまとの智恵占学情報推命学鑑定士yanzi(ヤンヅ)
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